「年魚知潟(あゆちがた)」。愛知県の県名の由来となったこの古い地名は現在の名古屋市熱田区にあったとされる干潟を指す。
「年魚」とは「アユ」のことである。アユは「清流の女王」と呼ばれ澄んだ川の上流域で夏を過ごす魚だ。干潟——汽水域の泥の浜——に棲むイメージはない。それなのになぜこの干潟に「年魚」という名が冠されているのか?
この「矛盾」こそが私の長い旅の始まりだった。
アユは「清流の女王」であり「干潟の通過者」でもある
結論から言うとこの矛盾は「アユの一生」を知ることであっさりと解ける。
アユは確かに夏の間は清流にいる。しかし彼らの一生はそれだけではない。
- 秋:川の中下流域で産卵する。
- 冬〜春:孵化した稚魚は海へ下り、沿岸域の干潟でプランクトンを食べて育つ。
- 春〜夏:成長すると再び川を遡上し、清流で藻類を食べる。
つまり「あゆちがた」はアユにとって極めて重要な場所だった。稚魚が海で最初に過ごす「育ちの場」であり産卵や遡上のために「通過する場」でもあった。清流だけがアユの生息地ではない。むしろ海と川をつなぐこの境界域こそアユの一生を語る上で欠かせない舞台なのである。
もちろんこれは現代の生態学の知見を後から当てはめたものであり縄文人がこのことを明確に認識していたという証拠はない。しかし少なくとも「アユが干潟にいない」という矛盾は解消される。
「アユ」という名前の謎——なぜ「アユ」と呼ばれるのか?
ここで、もう一つの問いが生まれる。「アユ」という名前は、いったいどこから来たのか?
私は「ア」という音に「遠く」「離れたところ」という意味があるのではないかと考えている。
- 「あそこ」「あちら」「あなた」——いずれも話し手から「離れた場所」を指す。
- 「アユ(鮎)」もまた海から川へあるいは川から海へと「遠くからやってくる魚」である。
- 「あゆむ(歩む)」も、遠くの目的地へ向かって進む意味を持つ。
もちろんこれはあくまで私の仮説の段階の話である。言語学の通説ではない。しかしもしこの仮説が正しければ「あゆちがた」の「アユ」は、魚の名前である以前にもっと根源的な意味——「遠くから何かがやってくる場所」——を指していた可能性が出てくる。
実際この干潟は伊勢湾に面し、潮流や風が何かを運び込む場所だった。アユの稚魚もまた、海の彼方からここへ「やってくる」。人々はその「到来するもの」を「アユ」と呼び、そこに「年魚」という漢字を後から当てた——これが私の仮説である。
言語の古層を探る旅
この「ア」という音のネットワークを追いかけるうちに、私はさらに大きな問いに突き当たった。
- 日本語の「ア」が持つこの「離れ」の概念は、どこから来たのか?
- 縄文人の言語と、弥生時代に渡来した人々の言語は、どのように混ざり合ったのか?
日本語はしばしば「孤立言語」と呼ばれる。四方を海に囲まれた島国だからこそどこにも属さない独自の言語が生まれた——そう考えることもできるだろう。
しかし近年の遺伝子研究の飛躍的な発展は日本人の歴史と成り立ちを次々と明らかにしている。それらを踏まえて私が考える日本人像は次のとおりである。
- 縄文時代:大きく分けてポリネシア方面から来た南方縄文人と、シベリア方面から来た北方縄文人がいた。両者はある程度混ざり合いながらも日本列島の南北で異なる文化圏を保っていた。
- 弥生時代:主に朝鮮半島から多くの人々が渡来し縄文人と混血した。そのハイブリッドが弥生人である。
- 古墳時代:さらに朝鮮半島から人が渡来した。しかし弥生時代の移民が「一般の人々」であったのに対し古墳時代の移民は王族、貴族、武将、学者、技術者などいわゆる知識階級が多かった。
- その後:人の流入と混血は古墳時代の終焉とともに幕を閉じた。日本はそれ以降移民の国から「独自の進化」を遂げる国へと舵を切った。
このような歴史観に立つと日本語には三つの層があると考えることができる。すなわち「南方縄文語起源のもの」「北方縄文語起源のもの」「朝鮮半島語起源のもの」である。日本語は「孤立言語」ではなく世界の諸地域と同様に複数の言語が混ざり合い進化していった言語なのである(もちろん古墳時代以降の独自進化も考慮に入れる必要はあるが)。
「ア」はどこから来たのか?
この視点に立って改めて「ア」を考えたい。「ア」は南方縄文語か北方縄文語かそれとも朝鮮半島語か?
現時点での私の調査では南方の古語であるオーストロネシア語系やオーストロアジア語系に同じような意味を持つ言葉は見つかっていない。しかし、台湾の少数民族(高砂族)の言語とはつながる可能性がある。
例えばパイワン語の「aya」は「言う」と「あれ(遠称指示詞)」の両方を意味し賽夏語の「ha-」は遠称と非可視を表す。これらの例は偶然の一致とは考えにくい。
したがって私は現時点では「ア」のルーツは南方系縄文語である可能性が高いと考えている。ただしこれはあくまで現段階の仮説であり今後の調査で変わる可能性もある。
あゆちがたが教えてくれること
この仮説を想定すると一つの疑問が浮かぶ。「あゆちがた」はいつからそう呼ばれているのか?
文献上の初出は『万葉集』(759年)である。しかしこの地名は縄文時代からあったと考える人もいる。私もそう思う。
あゆちがたは川一筋からはほど遠い、広大な場所であった。そこにアユが一面に遡上する様は当時そこに暮らした縄文人にとって驚きと荘厳さをもって迎えられたであろう。北海道のシャケの遡上と同じようにそれは単なる食料源であると同時に神聖さを秘めた現象だったに違いない。
人々はその思いを込めてこの場所を「アユチ」と呼んだ——私はそう考えている。
もちろんこれは証明された事実ではない。あくまで一つの仮説である。しかし「歴史はなくなったパズル」であるならば欠けたピースを想像することもまた歴史と向き合う一つの方法ではないだろうか。
あなたはどう思うか?
この仮説に賛成か、反対か。あるいはもっと良い説明があるかもしれない。もし何か感じることがあればぜひ教えてほしい。
キーワード: 年魚知潟、アユ、語源、縄文、弥生、神功皇后
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